宝くじはやっぱ愚者の税金だと思う

宝くじを買うのってどの層なんだろうかと考えてみると思うに特に今後なにか成功なり、大金をつかむなりを達成できないけれど幸せな夢をみたいと考える人が多いのだと思う。例えば芸能人だったり小説家だったりだとあんまり宝くじは買わないと思う。これはまあ偏見の類だが、一応理由はある。いい意味で給料が不安定な人は来年はいくら稼げるかが不透明だ。いわば努力した分だけの収入が得られるともいえる。それは決められた給料を定年までもらうサラリーマンにしてみればうらやましく、夢のある話だろう。派遣社員で少ない上に努力しても上がらない給料をずっともらい続ける(ずっともらえるのなら幸せな部類だが…)人からすれば数千円で人生一発逆転のレベルの金をもらえる夢を見ることができるというのはずいぶんと甘美である。その点においては費用対効果はずいぶんと優れていると言えよう。ストロングゼロという安酒は現実から逃れるという点ではかなり優れているが何分健康を害しかねないので宝くじの方が幾分健康的である。本質はまあ変わんないと思いますがね。

 人生において退屈や絶望からの逃れ方はいくつかある

退屈は無味無臭の劇薬という言葉はいったい誰によるものだったでしょうか?私にもよくわからない。だからググる。数分調べたけど分からないのであきらめてしまおう。別に誰が言ったかなどどうでもいいのだ。発言者によって受けとめ方を変えるのもあまりよろしくないかもしれないしね。社会においてチャレンジはいつでも遅くないというのはまあ間違いであろう。趣味レベルなら別にいつだっていい。別に死ぬ一年前に手芸に目覚めても誰かがそれによって困ることはない。されど働き盛りで家庭のある人が定職を捨ててサッカー選手を目指したらどうだろうか。たしかにチャレンジはいつでもいいし目指すのは自由だが成功の可能性が小さくなることとリスクが大きいことは受容しなければならない。安い賃金でずっと働くだけの労働者にとっては割と絶望は身近なものだろう。友人やら家族やら趣味やら酒やらで気を紛らわしているのだ。実際それでいいのだつまらないことがあれば楽しいことをすればいい。目の背け方はいくらでもある。

されど同じ目の背け方にも大きな違いがある。それは生産性があるかどうか、希望が持てるかどうかだと思う。たとえば株取引。素人目からすればうまくやればそこそこの利益を上げられそうに思える。生産性はあるし希望も持てる。株を本気で勉強して取り組んでいる人からすれば何万という金を確率的にほぼ成果を望めない賭けに供する人々は不思議に映るだろう。

世の中において愚者の税金と言われる所以はより良い手段の存在に気づかずに、もしくは気づいていてもめんどくさがって一番楽だが成果のないであろう手段に金を投じる点だろう。金を稼いで貯め、勉強してより金を得られそうな方法に投じる方がきっと楽しいし実入りもあるだろうにどうしてそちらを選ばないのかは不思議なものだ。逆の見方をすれば愚者が夢を見るには少なくない金を払ってほとんど望めぬ賭けをするしかないということだ。なんともまあ悲しいことね

銀河英雄伝説 戦略と戦術の違いと社会考察

銀河英雄伝説という作品をご存知だろうか?年代としては1980年代作品であるから今の若者にとってメジャーとは言えないかもしれない。されど今でもヤングジャンプで作画を変えて漫画版が新しく連載されたり、新作アニメが放送されていることから世代を問わず長く愛されている作品である。この作品ではSF戦記ものでありながらバトルシーンよりも政治的な葛藤や哲学的命題が魅力である稀有な存在だ。作中では衆愚化した民主政治と最良の君主を戴く専制政治のどちらが民衆にとっていいのか?という問題や民主政治の迂遠さが印象的に描かれている。今回はタイトルの通り作中における戦略と戦術の違いを考察する。

戦術とは、戦場において勝利を得るために兵を動かす技術である。

戦略とは、戦術をもっとも有効に生かすための条件を整える技術である。 

銀河英雄伝説田中芳樹より引用

 例えばプレゼンにおいては戦略はどんなテーマにするか?どこをアピールするか?目標を定めることと達成のための手段を練る構想の段階であるといえる。いわば事前の準備だ。一方戦術とは当日のプレゼンでの声の抑揚や身振り手振りであるといえる。その場においていかに説得力あるプレゼンができるかという技術の範疇といえる。

作中においては徹底的に戦略>戦術として描かれる。バトル物では戦場での用兵に華があるだけに取りざたされがちだが、銀英伝では繰り返し戦術レベルでの勝利は戦略レベルでの失敗を補完しえないとしている。いくら勇猛で用兵に優れた将帥がいても戦略的に破綻している作戦は無理がある。このことは日常生活やビジネスにおいても同様である。現場レベルの努力や工夫のみに頼むようでは長期的には敗北を余儀なくされてしまうのだ。

 特に学術研究の世界でこの考えが重要であると思う。優秀な学者の個人的な努力も大切だが結局国の高度な技術を支えるためには国家による環境づくりが大切であるといえる。結局どれほど金をついやせるかということに帰着したりする。現在の学術研究の世界に「選択と集中」の理論をあてはめて役に立つか立たないかで予算獲得を困難にすることは中々よろしくない。優秀な研究者が予算獲得に苦労する姿はなんとも悲しいものだ。ろくに資源もなく農業でも食っていけない国なのに技術捨てたら何が残るのか…未来への投資である学術研究のためであれば少しの増税をしたっていいくらいに思える。

特に若者の博士課程に進む数がずいぶんと減っているらしい。大学側も若手研究者に十分にポストを与えられていない。そもそも学者が金に苦労するのは昔からのことだ。どうにも日本では突き詰めた技術や努力に対して十分な対価が払われていない気がする。研究者や職人が金のことをいうのはなんだか批判されがちだし、儲かるから研究者になるという人は少ないのではないか。高度な技術の開発という目標があるならば現場で叱咤激励することなどより十分な環境を与えることこそが大切なのだ。国にしろ会社にしろ戦略を練る上層部が一番大切ということに思える。

 

 

 

習慣化することの大切さ

大学生活というと高校時代とくらべてかなり自身の自由裁量で時間の使い方を決められることが多くなる。長いようで短い大学生活をどのように使うかは当人に委ねられるわけだ。この際に気を付けなければならないのが何もしないでいると本当に何もせずに怠惰に過ごす日々になるということだ。怠惰な日々というのは恐ろしいもので当人の可能性をどんどん奪ってゆく。何事でも大事業をなす人間というものはとにかく常人よりも長く働くものだ。効率も大切だが泥臭く研究したり行動を続ける能力が大切である。その能力は精神的なものと肉体的なもの、そして習慣的なものの3つに分類されると言えよう。肉体的なものはいわば体力である。すぐに疲れて寝たりしては何もできない。精神的な能力とは集中力や本人の気質が中心的だ。ノーベル賞を得た吉野氏も壁にぶちあたっても「なんとかなるわね」と柔らかく考えることが大事としている。楽観的であったり、柔軟な思考が成功を生む。そしてもっとも重要と考えるのが習慣の力だ。習慣の力とは起きる時間や寝る時間を定め、毎日繰り返して何かに取り組むということだ。大学生は授業の入れ方によっては午前休だの全休が生じたりする。一限がある日と三限からでは起きる時間も異なりがちである。でもそれだとよろしくない。体も不調になるしね過ぎて時間を無駄にしがちだ。時間は平等に流れているが使い方は人それぞれ、朝の何気ない一時間のロスも習慣化して四年間を過ごすと膨大な時間の損失となる。その程度の管理ができない人間が語学習得だ資格勉強だのという何か月、何年とかかる事業を成功させることができるはずがない。高校時代の夏休みに進路指導部からの書類に受験勉強のアドバイスとして起きる時間、勉強の時間、寝る時間の三点固定を行うべしと書いているのをみて当時の私はなんとも小学校の夏休みのしおりのようだと自称進学校らしいと笑ったものだが今にして思えばそれが堕落せずに生産的な日々を過ごすためにいかに重要だったのか思い知らされる。

 社会人にしろ学生にしろ一日や一週間の中で自分の勉強に費やす時間を継続的に確保できている人は強いと思う。語学にしろ資格にしろ資産運用にしろ自分が優位に立つためにはそれなりの労力がかかる。習慣化というのは恐ろしいもので継続して取り組んでいるとだんだんとその作業が楽に感じられるようになる。資格取得にしろYouTuberにしろブロガーにしろいずれも最初の時期の報われない無駄にも思える努力をしてこそ後に成功するのだ。有名な言葉に「したい人、1000人。始める人、100人。続ける人、一人。」とある。ブログで稼ぐだの知識で稼ぐだのしようとすると何度も絶望することがある。勉強だってそうだ。数学の新しい領域は解き方が分からないのが当たり前だが、教科書よんで授業きいてなんとか理解していく。最初に苦労することは当然なのだ。苦労しているとき、投げ出したくなる時にはこう思えばいい。「自分は今ふるいにかけられているのだと」そして一定期間努力できればその道で大成しなくてもその忍耐や経験がいずれ他の道で活かされる。努力すればかならず叶うなんて少年漫画のお題目に過ぎないが正しい方向に、正しいタイミングでした努力はかならず意味をもつ。すぐに投げ出す癖なんぞ身に付けたらもはやなにも苦労の無い誰でもできる仕事しかできなくなる。

最初は本を読むとか筋トレとかでいい。重要なのは過ぎゆく時間を流れるままにして本能と怠惰のなすがままに生きる生活から、自分で律して時間を管理することだと思う

 

ブログ雑記 サブのサイトも継続しだい

世の中ブログで収益をあげている人は大概グーグルアドセンスを活用している。クリック単価の高さと言い他のASPと比較してもずば抜けている。このブログには忍者アドマックスの広告を付けているがいかんせん収益性は今一つだったりする。まあ弱小ブログの状態で収益なんて考えずにコンテンツの充実を図るべきではあるが..そうとはいっても収益はモチベーションにつながるし私も叶うもんならグーグルアドセンスの方がいい。そのため多くの新米ブロガーにとってはグーグルアドセンス審査に合格することが第一の関門であり、一番挫折が生じやすい難関だろう。ネットを見ると昔は500文字程度の記事を5つもあれば受かっていたらしいが現在は審査の難易度は難化しており、2000文字程度の記事を15くらいは必要とのことだ。内容も精査されており、グーグルのポリシー違反が発見されれば審査は落選、広告配信中でも停止となってしまう。おそらく多くの新米ブロガーが夢破れたことだろう・・・

実のところ私はグーグルアドセンスの審査に落ちまくっている。サイトが使用できない状態になっているだのが不合格の原因らしく正直よくわからないのでもはや審査用のブログをワードプレスの方で作ってしまおうと考えている。もしくはドメインをも一つ作っちゃってそっちを使用するとか考えている。なんともめんどくさい。ワードプレスの方でブログ作ったらめでたく私は弱小ブログを3つ運営することになる。そんなに更新できるかというものだ。でも実際このブログが一番書きやすい。基本的に書きたいように書いているだけだし画像を選んだりもしていないいずれ記事がたまってから画像入れたり見やすく見出しを整えたりとするかもしれないがとにかく書きやすい。このスタイルは他のブロガーさんのものを模倣したものでそちらのブログでは基本的に見出しや大文字や色の変化を殆どつけず、画像等も使用せず、基本的に自分の書きたいように書いて批評するというスタイルで十分な記事数と三年ほどの継続によって十分なアクセスを得られているとのことだった。実際複数サイトを運営していれば忙しくもなるし、サブのブログの方では見た目に手を凝るよりも中身の充実を優先としたい。

またグーグルアドセンスはその制限の厳しさからポイントサイトの紹介などの記事が書けない。せっかく複数サイトを運営しているのだからこっちのブログではそっちの方向に個性を伸ばしていきたいと考えている。

今後国立大学は規模を縮小していくのだろうか?狭まる私大との学費の差問題

少子化が進む中で大学入学希望者数が全大学の定員の合計を下回り、理論上はすべての学生が大学に無競争で入れる大学全入時代となっている。まあそうなったところで上の大学や有名大学では競争が生じるので意味がないと言えばそうなのかもしれませんが。

 若者の都市部への流出によって主に地方国立大ではレベルの低下が叫ばれている。まあ希望者が減ればレベルの低下は仕方がないことかもしれません。結果として国立大の中では産業界のニーズに合わせた学部再編や規模を縮小してレベルの維持を図るところが出始めています。うーんどうなんでしょうね。これは果たしていいことなのか悪いことなのか…。特に地方国立大学はその周辺県の行政、教育、産業、医療を支える人材を輩出しているわけですからね。教員のような今後減る分野の縮小はいいとしても理工系の人材を減らせば地域の産業界は困りますよね。まあこういう時に真っ先に減らされるのは文系と相場が決まってますからそっちが先でしょうね。

 

大学によって対応が異なる

国立大学といっても序列が存在します。旧帝大や旧官立大、医科大学から商科大学、その前身母体やレベルによって現在も求められる人材や大学の在り方が異なります。

特に国立大学の中でも規模の面での差は著しいです。単科大学を差し引いて一県一つの総合大学的な存在で比較すると東京大学だと1万4千人ほど、福井大学秋田大学などでは4千人ほどの学生数です。一般に旧帝大などは1万人を超える学生数を誇っており、これは東北大学なら東北や周辺地域に広く高度な人材を提供するという役割があるためですね。国立大学では周辺地域の人材供給のためにおいそれと規模縮小というわけにもいきません。むしろ入学難易度は低くなっても定期試験のレベルの向上や教育に力を入れることで最悪どんどん留年させてレベルの維持を図った方がいいのではと思います。入学時の偏差値ばかり気にするのではなく、一番重要なのは卒業時に優秀な人材になっているかどうかなのでそっちを主眼に入れた方がいいのでは?理系就職では偏差値以上に現場や研究で使えるかどうかが重要視されるので企業も偏差値以外の尺度で見ていそうですよね。あの大学の学生はしっかり教育されてるなあと。

 

 国立大の学費が上がるかもしれないという件には大変憂慮していますね。そもそも国立大の学費が安いのには貧困層でも優秀であれば安い学費で十分な教育が受けられるというセーフティーネットでもあるわけですから。私大と比べてあまり差があってはいけないとか考えてるやつらはもう何考えてるんでしょう。私立高校に通う生徒が私学助成金をカットした大阪の橋本知事と対談する動画がありますがどう思いますかね?私としては無償化はまずちゃんちゃらおかしい。高校では公立もレベルは様々ですよね?地域にいくつかあるもんだしわざわざ私立高校に行かせる必要はない。特別なレベルの高い教育を求めたり、公立に入れないレベルだから私立に行く場合になぜ税金で補助を出して公立と同額の待遇にしなければならないのか?むろん多少の補助はいい。私立には金持ちしか入れないというのを是正することは間違っていない。されど公立と同じになるまで補助するのでは公立にいくインセンティブが失われる。一般に私立では設備が良かったりする。そういうとこに通うなら相応の金がかかるのは当然ではないか。

 話を私大にあてはめよう。私大は全大学の7割を占めるだけに国家が補助するのは当然であろう。医療系の人材などをすべて国公立でまかなうなんて不可能である以上国家が補助するのは当然である。たまに私大に税金で補助するなという意見の人がいるが過激に過ぎるだろう。されど数が多すぎるのも事実である。意味もなく大卒が増えるととてもよろしくない。なぜなら大学進学率の上昇は進学しなければならないという社会的プレッシャーとなる。親は子に大学まで行かせることを前提にして育てなければならない世の中になると育児にかかるコストが跳ね上がることになる。そのうえ大多数が大卒であればそこに優位性はない。親は苦労して大学に行かせるがいったところでいい就職に付けないのであれば目も当てられない。昭和の時代に子供が5~6人が当然だった理由は中学までいかせれば上等という時代だったからだろう。昔読んだ少子化について綴った新書で一番の解決法は社会を昭和初期レベルに戻すことだがこれは実現不能だそうだ。中卒で働けなどとは言わないが平均的な学歴が上がるにつれて育児のコストが高まる以上は相応の対価が得られないのならばいたずらに大学進学すべきではない。むしろしなくても十分な収入を得られる社会であるべきなのだ。今の時代奨学金の学生も多いんだし企業もなんでもない仕事に大卒の肩書を求めるべきではない。若者が疲弊するだけである。

東京一極集中は少子化に拍車をかける

東京には企業や行政機能が集中しており、ライブや講演やらイベントの充実っぷりは随一といえますね。私は東京どころか日本の端の方に生まれたので東京生活には憧れもあるし恐ろしくもあります。そういう意味では私が東京生活と地方生活のどちらが良いだろうかというテーマを考察することは難しいです。そもそも東京に住んだことないし。

なのでどちらかというと主観ではなく客観で語れることにとどめたいと思います。

 

東京にはいわずもがな多くの人が集中している。都市圏人口は3700万で世界でもトップクラスを誇る。人口流入のペースは経済状況によって異なれども依然として東京への人口流入は続いている。東京には大企業が集中していることもあり、その賃金は高く、最低賃金は2019年10月より1013円となり日本で一番高い。仕事は多く、賃金も高い東京であるが出生率では1,24と全国ワーストである。家賃などの生活コストが高額であること、仕事がいそがしい、通勤に時間と体力を奪われることから子育てをするには良い環境ではない。たくさん人が集まって、いっぱい働いて、くたびれてすりへっているのが現状である。ブランド物の服で身を包み、銀座や夜の繁華街を闊歩しているような華やかな都会生活を送れている人は少ない。まあ渋谷で安酒片手に騒ぐっていう楽しみ方もあるけどね。金と時間さえあれば都会はとても楽しいだろうけど実際庶民は近郊に狭い部屋を借りて満員電車を通勤する毎日という人が多いだろう。地方都市で家と車持てた方がいいよねえ。

 

現実として東京は地方から多くの若者を吸い上げて会社を回して疲弊させているわけだ。狭いアパート、田舎と違って地域にもよるが公立中学は結構あれているところが多いから私立に入れるという選択肢を取りたくもなる。となれば子供を三人なんて到底無理だし二人でも厳しい。一人に資源を集中させようなんて考えにもなる。また東京で国公立大学となるとレベルは高い。私大ならいくらでもあるけどお金もかかる。私は結構な田舎育ちなんで子供が二人なのは当たり前だったし三人四人というのもそれほど珍しくはない。金に余裕があったら私も子供三人くらいほしいかも。そんな人生設計も地方だからこそできることであると言えよう。東京で生活して子供三人を育ててなおかつ十分な教育投資を与えることができるのかというとこのブログがバズりでもしなければまあ無理だろう。すなわち無理ということだ(/ω\)

何が悲しいかというと東京での生活が魅力的に映ることなのだ。千葉や埼玉なら通勤地獄さえ耐えれば十分にゆとりをもって生活できるし東京にも近い。若者でまったく東京に興味がないという人は少ないのかもしれない。私としても乃木坂ライブにたくさん行きたいという切実な思いがある。わざわざ新幹線でお客さん待遇でいきたくないのだ。

ふらっと遊びに行きたいもんである。まあ人多いの嫌いなんだけどね。

高校での学びは意味ない?むしろ学びの入口かも..でも古典はいらない

 高校時代での学びには意味がないことが含まれているというのは大多数の人の賛同するところであると思います。こういうことをいうとよく「意味のないことなんてない」とか「いや全て無意味だ」なんて極端なことをいうひとがいますよね。実際のところは人によって要求される知識の内容は異なるものですし、そもそも仕事に役に立たない知識はいらないというのはあまりにも過激な考え方ですよね?産業ロボットならともかく我々は人間です。日本は民主主義国家であり、その選挙においては国民の知識レベルは重要になります。租税や社会保障、政治のことと有権者は密接な関係であるのに、私は工場労働者になるので仕事で使わないので中高レベルの社会科の授業は不要なんていう人いたらもはや視野が狭すぎますよね。世の中には「朝三暮四」という故事があります。由来はある猿を飼っている青年が猿に金がないからえさのトチの実を朝に3つ、晩に4つにするというと猿は少ないと言って怒り、朝4つ、晩3つとすると大層喜んだという話です。そのことから目先のことに気を取られてうまく騙される様をいいます。

 政治でも企業でもできるだけ税金なりを絞ろうとするし、逆に還付金だの減免制度は積極的に教えようとはしないものです。政治が腐敗したり、利権ができるのは至極当然のことであり、国民が目を光らせて批判することが重要なのです。その点でいえば仕事に使わない知識も捨てたものではありません。

 

わたしにとっては高校で倫理をかじれたことは一生の財産であるともいます。著名な哲学者の思想を覚えるのが中心ですが哲学や宗教思想の概観くらいは理解できます。仏陀のといた原始仏教はいまの日本の葬式仏教とは異なるものであるし、そもそも宗教というよりは一種の思想であることにも知ることができました。多感な高校生のうちに人生の指針を「考え続けること」と見いだせたのは大きな収穫です。安易に誰かの教えにすがることなく多様な考えを受容して吟味できる人間であれば、宗教の狭義を盲信することもないですからね。そもそも宗教を信じるのではなく、宗教家の哲学の内容を重視すべきなのです。いいこと言う人もいるし、わけわからんこと言う人もいますから、信じるなんて思考停止はするべきではない。自立した人間はそうそう他者を崇拝しちゃだめですよ、尊敬とは違って崇拝はその人の奴隷に成り下がることですから。そんなふうに考えている今の自分の考えもさらに学びを深めれば変わっていきます。そこが思想の面白いところですよね。倫理学べてよかったと思います

 

こんなこと言ってますが古典だけはいらないと思います。今の日本において歌を詠んで思いを伝える人はあんまりいないですし社会生活において上司が歌を詠んで部下がその真意を察するなんてことはまあないでしょう( *´艸`)漢文はまだ教訓を語るものが多いし青少年の育成にいい効果もありましょう。雄大な自然を謳う漢詩に心うたれた若者は多いでしょうし、蛍雪の功の逸話は蛍の光として日本人に愛されていますよね。アメリカにおけるディズニーのアメリカンドリームのように日本では蛍の光、窓の雪明かりで苦学して努力し、大成するというストーリーが国民的に愛されています。されど古典ってなんか与えたのだろうか…まあ桜をはかなんだり季節の移り変わりに涙する精神は世界に誇れる美点と思いますけどそれなら有名な和歌を教養として知っておけばいいし

毎度くそどうでもいい貴族の恋愛話を聞かされる受験生はほんとにかわいそう。進学校ほど男子校や恋愛と無縁なかたが多いと私は勝手に偏見を持っていますのでその点においてもイチャラブを後世に伝えることにどんな意味が…とは思います。確かに古文書解読のために必要だし、大河ドラマなどで昔の武士の書状が読まれるシーンでは何となく意味が分かるのでお得な気もしますがなぜああも貴族の日記(ほぼ恋愛、もしくは死別して出家のシリアスもの)ばかり題材にしなければならないのか…。教養なら貴族文化と同様に庶民の苦しい生活を謳った歌や防人の歌などで当時の世相を知る方にシフトすればいいのにあんなわけわからん狭い貴族文化をひたすらやる意味とはいったい?

 やっぱ現代文とか教科書に載るレベルともなると面白い話が多いです。日本人として最低限有名どころくらいは押さえといたほうがいいし著名な作者を幾人も学べば自分の気に入る作者を見つけることもできますし、やっぱ古典いらないとおもんですね。所詮教科書に源氏物語の概要すら書いてないし。まあ私はいくつか有名どころな歌をネットで調べてなかなか面白いとも思いましたが多くの人にとっては興味もないことでしょうね。むしろその時間を理科にあてた方がいいかと。文系だと地学基礎、生物基礎選択の人多くて化学知識ほぼないなんて人も多いですしね。英語も鍛えなきゃですし。古典と漢文を圧縮した方いいんじゃと思いますね。すべてなくせとは言いませんが内容に変更が加えられるのが望ましいと思います