「アフィリエイト」は稼げるのか?やはり鍵は継続だと思う

アフィリエイトでググってみてほしい。月に百万だのと謳うサイトがたくさん出てきますよね。これらをみると自分も稼げると考えてウキウキで参入したくなっちゃいますよね。私もまあそんな感じなところがありました。されどやってみるとわかるようにそれほど簡単にすぐに稼ぎだせるわけではありません。世の中には成功者の声よりも多くの敗者の怨嗟の声があふれています。いまだ弱小ブログではありますが稼げるか稼げないか考えてみましょうか。

 

世の中では不動産業はわりと堅実な方の投資といえますよね。立地や周辺環境を考慮し、そのうえで十分満足できる内装であれば風水害や殺人事件の現場にでもならない限りはそうそう価値が暴落することはなく、家賃収入で利益を上げることができます。されど不動産のような安定した投資の為には利益回収のために長い期間を要すること、そもそも多額の資金が必要というデメリットがありますね。ブログアフィリエイトにおいてはまず資金が必要でなくリスクもほぼないという特徴があります。いわばこの上なく安全な方式であってそれで簡単に稼げるのでは少々虫が良すぎますよねえ(/ω\)

ブログを書くにあたって知識量的にこの程度の自分が書けるのか?と悩むことも多いですよね?されど案外世の中見てるとそれはないだろって考え方をしている人がいっぱいいます。逆張りばかりしているようなブログもありますし、こんなんでいいのかと思っちゃいます。悩んだときはそういうのをみるとなんだか勇気が湧いてきますね。世の中下を見て安心することも大切です。

 

収益においてはどうか?これはブロガーとして重要な問題ですね。この点に関しては私はブログで月収100マンなんて言うのはそうそうできることではないと感じています。そこまでやるとオンラインサロンだのコンサルだのメルマガだのとなってきて胡散臭さも高まりますね。されど5万10万を稼ぐブログであれば継続さえしていれば十分に達成は可能であると思います。どうですか月に10万収入が増えるというのは?そこまでできれば更新頻度を下げても稼げますし余力を新たなブログに向ければ収入を増やすことはできますね。ノウハウはあるわけですから。実際私の理想としてはブログで月に15万~30万、本業でそこそこの収入という生活です。むしろ私は資産をさっさと作って株式投資の方に回したいのでブログは効率よく貯金を進めるためにしたいですね。そういう意味でもブログ専業というのはあまりお勧めできませんね。仕事は社会的地位にもつながりますしよほど儲けてタワマンに住んでいるという人でもなければ副業にとどめておくのがいいでしょう。車やら家やらのローンも通りにくいですしね。

アフィリエイトにはどうしてもアクセス数が必要です。ブログ初めて数週間ではグーグルからの検索流入なんてほとんどないしPV数も低空飛行を余儀なくされます。その時期を超えたのちにじわじわとアクセスが伸びるというのはネットにいくらでもあふれている情報です。それを知ったうえで数か月単位で継続して記事更新できるかが重要なのであり、そこでふるいにかけられているというわけです。思えば資格試験や受験勉強も難関を狙えば数か月、数年単位での努力を要することとなる。ブログと異なる点は周囲が支えてくれないということだろう。人間はある程度強制されなければ継続することなどできないわけであって学校で集団で取り組む勉強とはわけが違う。周囲にブログでアフィリエイトしようと考えていると明かしたところで親や友達は応援するだろうか?まじめな親であれば無理だろうし、友達も金儲けに乗っかろうとするか、楽して儲けようとしていると批判するだろう。むしろ怪しげなことをしていると風潮されかねない。稼げているならともかく稼げてない時なら確実に馬鹿にされる。短期的な視点で見ればバイトの方がよほど楽だからだ。バイトとの違いはコンテンツを成長させることで収益が増大し労働もだんだん楽になるという点だ。だがやはり最初は苦労する。

 

ブログを始めようとするのは勇気あるはぐれ者

ブログで収益を出そうと考えているのは今の自分の収入に満足していないか将来の投資目的などだろう。他人のように会社からもらう給料のみに頼らず、自主開拓しようという精神は立派だし将来に向けて投資しようという考えもいいことだ。投資対象としてはリスクもないし、知識なくFXにぶち込むよりははるかに賢明だ。

 昨今は大学生がブログをはじめて一山稼ぐというひともいる。周囲は遊びにふける中で未来を見据えて生産的な行為に励むのは勇気あるはぐれ者だ。ブログという性質上一人の作業は当然に多いし、ネットビジネスということで周囲の理解も得にくい。勇気あるはぐれ者とはそういうことだ。されど競争の激しい世界である。この場合の競争とは他者とのコンテンツのクオリティーというよりは日々継続して更新できるかという自分との闘いである。逆を言えばそれさえできればそれなりの成果はでやすい。そういう市場だ。いわばどこまでいけるかの社会実験であってその結果によって人生設計は多少変わる。マラソンみたいなものであるだけに継続が大切

 

人生において風呂代だけはケチりたくない

単身1人暮らしだと友達の中には節約のために湯船に入らないという人が結構いる。

確かに一人ぐらいしにおいて一人のために湯を張るのはきわめて非効率である。水道の無駄遣いが環境に負荷をかけ…かけるのだろうか?水じゃん。電気の無駄遣いは発電に火力発電が日本で中心である以上環境によろしくないというのは理解できる。水はなんでなんだろうね。ググってみよう。ググったところ飲用可能な水が少ないことと油を流すなど水を汚さないことの大切さは理解できました。汚さなきゃいいんじゃ...とも思いますが無駄遣いするなという社会の潮流に身を任せたいと思います。

個人の風呂使用の最大のネックはやはり水道代とガス代ですね。風呂に入るか入らないかは風呂に入ることによるメリットとコストの比較考慮というわけです。なんだか法律学みたいですね公共のための制約と人権の間での利益衡量論って感じで。水道ケチるか否かと同列にしていい話じゃないですね。

 風呂はまずあったかい。風呂は命の洗濯であるという言葉を残した人物がいるがパッと思いついたのがヱヴァンゲリヲンミサトさんだったが正しいのかうろ覚えである。著名な哲学者の言葉だったような気がしないでもないがやっぱりミサトさんなのかもしれない。風呂に入らない理由として節約が挙げられるがその考え方にも私は反対である。そもそも過度な節約志向全般に言えることだが削るよりも増やすことに思いを致すべきではないのだろうか?世の中には稼ぐ手段がいっぱいある。熟練の人であればやかましい機械の前で数時間座って銀玉で遊ぶだけでお金を得ることができる。安心していただきたいこの遊技はどうやら賭博ではないらしいので安心である。色々と働き方はあるのだから風呂代くらい気にせずに入りたいものである。ちなみに私はパチンコはやらない。だって負けるから。10分で千円消えて腹が立ったので帰りにはチャーシュー麺を食べてきた。私の場合としてはぜひともブログを収益化することで風呂代を稼ぎたい。風呂代というとなんだかいかがわしいようだがそっちはそっちで大歓迎である。

風呂に毎日入るためならば記事の更新など苦ではない。まったくもってつまらぬことに気にしなくてもいいほどの金の余裕を持ちたいものですね。なんともわずらわしい。

 

ポツンと一軒家を観て幸せについて考えた

いつだったかポツンと一軒家という番組で岩手の山奥の一軒家を紹介していた。その家主は元々山奥で畜産を営むはずだったが動物を殺すことに耐えられずに廃業。喫茶店を営む傍ら、山中に青少年が自然と触れる場を作ることと自身らの楽しみのために仲間とともに小屋や施設を建設していた。朝早くに山に行き、小屋の外で木々に囲まれながらコーヒーを飲む姿にはめちゃめちゃ憧れた。

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 仮に自分が一人で同様なことをして同じくらいの感動が得られるだろうか。そもそもいずれ辞めてしまうだろう。仲間がいてこそであるし、行為は建設であり生産的である。一人で何かしてもつまらないし、仲間と酒飲んだりスポーツするのも楽しいがむなしい時もある、仲間とともに生産的な行為をしてなおかつ地域のこどもたちのためにもなるという行為はなかなか幸せのレベルは高いといえる。楽しい行為、仲間との共同行為、社会的に価値ある行為というわけだ。こいつあいいや。

実りある人生のために趣味は重要であるが長い人生なのだからそこには生産性や他者との関わりが欲しいものだ。陶芸を趣味として近隣の愛好家と交流したり、自作の皿を欲しがる人にあげたりという流れである。野球を続けた青年は社会人となって後進の育成に励むというパターンもある。

まんま私の友達である。うらやましいね。

 そういえば高校の先生にめっちゃボランティアにいく人がいた。結婚していない高齢女性だったがなにか災害があるとボランティアに行く人で活動的だった。災害現場でボランティアに来る人はどんな人たちなんだろうか。そこでの出会いというのも興味深いし彼らといずれ酒でも酌み交わせたらいい思い出になるだろう。自分が社会のために働いているという実感、同じような人との出会い。その後いい酒が飲めそうである。正直その人の授業はあんまり進みが遅くて人物としても少し嫌い気味だったがこうして考えると自分にとって多様な幸せの形を示唆してくれていた人だったのかもしれない。もっといろいろと話を聞いてみればよかったな。

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こどおじってそんな悪いことなのだろうか?

こどおじというのは子供部屋おじさんの略であり、成人しても独立せずに親と同居して生活する人間をからかった言葉である。独立していないために家庭生活を営む能力が低いことや恋愛において家族との同居がネックになることがあるために未婚者が多いなどの点を揶揄している。重要なのはニート引きこもりとこどおじはイコールではないということだ。働いているが同居しているという人は多い。似た言葉にパラサイト・シングルという言葉もあるがこどおじはそれがさらに高齢化したものという認識ができる。

 

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前提としてまず私はこどおじではない。このタイトルだとこどおじ臭むんむんであるので注意されたし。

こどおじという言葉の由来はネットが由来であるが不動産業界などが流行らせようとしているという指摘もある。ネットの噂レベルであるが…。今後マスコミがこの言葉を使って報道し始めたらこの陰謀説を思い出してもらえたら本望である。そもそも親との同居には金銭的メリットは大きい。特に都市部では高額な家賃を納める必要がないというのはかなりの特権である。もはや選ばれしもの。都内に親の代でローンを払い終えた家があるというのはかなり恵まれている。地方においてはそもそも農家などは土地に根差して生きているし田舎ではアパートが少ないということや家が広いことから同居が普通だし家族仲次第だが案外ストレスも少ない。親の介護も考えればむしろ親孝行である。

ちゃんと働いて社会生活を送っているこどおじへの批判の心底には嫉妬が垣間見える。対極の存在としては都市部で貧乏一人暮らしという人間が想像できる。働けど働けど楽にならず一人暮らし、家族と同居している人間を自立していないとして叩こうというわけだ。まあこどおじの中には低収入ゆえに実家を離れないという人もいるし、高齢未婚というケースもある。主に揶揄されているのはそっちの方だろう。働いていて結婚もしていて親と同居している人間はむしろすごい奴である。

こどおじという言葉がおじさんつまり男性のみを想定しているのも注目である。なぜ男性の高齢同居のみが叩かれるのか。時代が変わって男女が同一賃金という時代になってもデートや食事代は男性持ちという古き良き不平等が存在する。まあそのくらいいいけどね。当然視されると腹立つよね( *´艸`)

このように誰かを叩く言葉はその言葉を発する側の人間像にも思いを致すと面白い。どんな人がどんな人に怒るのか、そもそもなぜ怒るのか。豊かな生活を送っているならばそんなことをする人は少ないし怒りの対象によってそのひとのことが分かるものである。変なたとえをするならばハードなエロ漫画のコメント欄に「こんなプレイでぬける奴の気が知れない」と書き込む行為が似ている。普通ならこれ見ねーからと突っ込みたくなる(/ω\)

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学校生活に違和感を感じても悪いことじゃない

近代の学校、とりわけ日本では学校で理想とする人間像はその時代の国家や社会の求める人間像と一致しており、時代の流れとともに変化するその変遷を見るのはなかなか面白い。一貫しているのは学校では生徒は同調圧力の中での生活を強いられるということだ。これは日本の昔から続く村社会の影響だろう。実際問題日本で一般的に生活していくためにはこのような村社会での処世術を身に付ける必要があるだけに一概に否定しようとは思わない。村社会であるからこその組織内での安住というメリットもあるにはあるし、いきなり首になりかねない会社というのはやっぱいやだ。そこらへんはやっぱり性分だ。

 たしかに学校時代からYouTubeやらで活躍していたり、特定の学問分野で才能があったりという人間にとっては狭苦しい環境だろうそればかりは仕方がない。公立学校は身近な地域に広く教育の機会を与えることが目的であり、少数の天才に最適化されているわけではない。世知辛いね。天才はなんだかんだ生きていける。それよりも問題なのは特に才能もないけれど周囲の学生と感性のずれを感じて悩んでいるそこの君だ。

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これは私にも強くあてはまる。別に何か実績があるわけでもないけれどなんだか自分は他のゲラゲラ笑っている人間と混ざれない。ただ青春をむさぼることに無条件で肯定できない。学校の先生は今を楽しめみたいなことをいうけれど、はたしてそれでいいのか。そこらへんに悩む人は結構いるだろう。昨今はなんだか自分がなにかしらの精神的な障害があることをステータスかのように考えるきらいがある。私はサイコパスですとツイッターに書くサブカルクソ女が後を絶たない。好意的にみれば障害を認める多様性ある社会ともいえる。なんだかなあ(/ω\)。あんまりそっちの方向に走ってもいいことない。

才能ないが社会でうまく立ち回れる自信もないという人ほど勉強には力を入れた方がいい。ペーパーテストならばやればある程度なら点数は普通に上がるし、レベル低めの地方国立位なら結構入れる。あとは公務員として拾ってもらって安泰を求めればいい。精神的に病んでもそうそう首は切られない。レールの上の生活に疑問を感じたからと言ってすぐに捨て去るのも考え物だ。レール外れた無能なんて結構きつい。せめて学歴なり、職業なりでマウント取ってた方が安泰だし精神安定にもなる。ただでさえ人生をそんなに楽しめないタイプなのに金もなかったら厳しいよね。

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余談だが異性とハグするとかなりストレスが緩和されるらしい。彼女や嫁さんとの関係が良好な人はいわば人生イージーモード、スーパーサイヤ人でマリオのスター状態である。街中で手をつないで歩いているカップル見ると心が締め付けられるという人は多いからその点ではマリオのスター状態が的を射ている。

学校生活の中で自分の能力を客観視してみよう。人をまとめて導けるか、コミュニケーションをとれているか、どの程度親密な友人をつくれているか、そもそも集団生活が楽しいか、全部できるなんて言う人は何の心配もいらない。あまり当てはまらないという人はそのまま社会に出でも不利なので学歴なり稼ぐ手段をつくるなりコネなりを考えてみよう。悲嘆にくれるのではない、別の手段を探すのだ。だから学校での生活に違和感を抱くのはそれ自体が悪いことではない。それ自体は普通だし、その後の行動次第では初期に対応できる。こまめな健康診断みたいなもんである。早期発見大事

 

いつだったか読んだ現代文のテーマに人生考えさせられた

  そこそこ昔の話だが模試の現代文で印象的な話があった。現代文特に小説で試験を行うことは大嫌いだったが、評論に関してはけっこうおもしろい話が多くて好きだった。

たまに作者が賢ぶろうとしているのかやけに横文字を多用したりわざわざ哲学の話を引っ張り出そうとするところもまたお笑い要素として嫌いではなかった。そういう点でいうと小池百合子都知事もやけに英語多用していてなかなか可愛らしい。

 いつだったか読んだ現代文の話に戻そう。現代文の試験で使われたのはもちろん一部だけなので試験後にその全文が読みたくて検索した思い出があるが当時は見つからなかった。私は人生において感銘を受けた本は購入して本棚に飾るのが結構趣味で小さい時に読んで大好きだったローワンシリーズというハリーポッター位の厚さの児童文学の本を全巻揃えている。できればその本も購入して本棚の肥やしにしたいがいつか叶うのだろうか…。そろそろその内容について紹介する。

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うろ覚えだが細部は適当に補強して要旨を紹介する

人間というものはいずれ死ぬものであり死後にはその意識は消失する。死後に残るような建造物や子孫によって受け継がれる遺伝子に自身の存在の証を求めたとしても、建造物もいずれ滅んで土に還ることとなるし人類とていづれは滅ぶ。そうであれば人に生きる意味はなく、何を理由に生きるのだろうか。その後はちょっとわかりませんが結論の方は覚えています。

 人が無意味の中で生きる意義とは楽しむことである。人生に本質的な意味はないが、家族と過ごすことであったり、満足できる仕事をすることであったりとそれ自体に価値があると感じる行為を積み重ねる。音楽などがいい例であり音を奏でることに意味はないしいずれ消えるものだが演奏それ自体を楽しむ。そうやって生きていって死にゆく瞬間にその無意味を嘆くのでなく、家族との思い出など人生で積み重ねてきたそれ自体に価値があることが死にゆく当人にとってなぐさめになる物であれば意義のある人生だったといえる。

みたいな内容の話だった。高校生というのはこれから関わる社会を斜めに見がちだ。少なくとも私はそうだった。将来愛することとなる人を知る由もないし、どんな職に就くかも定まっていない。描く幸せの姿はシルエットだけのものだし、薄々と人生の無意味さも感じるお年頃である。そんな時にこの現代文と出会えたことは中々運命的にすら感じた。多くの人間は歴史に名を残すこともなくして死ぬ。当人の思想も生き方も知るのはその息子位のもので孫すらも祖父のことなどよくわからない。その人の遺影が孫の代位まで仏壇に飾られるだけで、あとは墓石と戸籍台帳くらいが彼の存在を後に示す。

 そんな人生を受け入れて絶望することなく、死の間際にいい人生だったと思える生き方をしようというのは極めて誠実だ。あるかわからぬ来世や天国での生活には言及しないし、社会のために歯車として生きろというわけでもない。宗教の奴隷になることもなく社会のロボットに成り下がることもない。一人の人間として尊厳ある生き方だと感じた。なんだかこんなふうに言うと堅苦しいし過激だ( ´∀` )

もっと率直に言うと「いいな」って思えたのだ人に迷惑もかけないし人生の無意味さも受け入れている。受け入れられるならば煩わされることもない。正面から受け止めてない気もするけど斜に構えたっていいだろう。社会に埋没する自分を受け入れる森鴎外「諦念(レグナチオン)」にも近いかも。大切にしたい

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こうやってブログに書いたわけだが同じようなニュアンスの文章を知っている人がいたら教えてほしい。ぜひとも全文読んでみたいのでコメント待ってます

人が求める自由って大層なものじゃなくてごく身近なことかもしれない

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人類社会、とりわけアメリカや欧州などいわゆる西側諸国では自由という概念にとてつもない価値があると考えています。この場合の自由とは市民はその思想や宗教や言論などにおいて国家から干渉されないといういわゆる国家からの自由という奴であって、今日は牛丼を食べようとかいう自由とは質的にも量的にも異なるといえます。このブログのタイトルは自由を求める人間のブログということですが私の求める自由とは圧倒的な後者の方の自由ですね。今日は何を食べようと考えた時に目には見えないし誰かが法や暴力で強制する訳ではありませんがそこには制約があります。そうそれは金銭的制約というやつです。人間が社会で生きるということは必ず消費が伴います。そのために人間は日々生きるという消費のために、社会において一定の労務を提供することで金銭を稼ぐことに人生を消費します。悲しいことに社会での労働者は立場が低いために懸命に働けばどんどん給与が上がって日に日に楽になるといった現象はそうそう起こりません。いわゆる資本家であれば金が金を生むとの言葉のように、金を持てば持つほど楽に稼げるようになりますが労働者が日々働いたところでそのステージに立てるだけの資産を築くことは困難です。

 金銭的制約をごく平凡な日常生活において感じたくない。少し前にネット上にて若者の貧困の実態を示すと注目を集めた言葉がありますので紹介します。

「お金持ちになりたいわけじゃなくて、すごく欲しいものがるわけでもなくて、ただ、50円や100円やらのコーヒーを買うのに躊躇する生活を辞めたいっていうだけの話なんだよ。若者の貧困というのはそういうレベルの話」

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別に海外に派手に旅行したいわけじゃないし外車を乗り回したいわけではなくて、彼女とご飯にいってなんのためらいもなくおごってあげたり、日々の生活の中で飲み物とかお菓子レベルで煩わしい思いをしたくない。貧すれば鈍するという言葉は貧乏すると生活の中で常にそのことが気がかりになって物事がうまくいかないということを表している。若者が金銭の不安を訴えると高齢者らは「若いうちなんてみんなそんなもんで金も地位も後からついてくるから若いうちは苦労しろ」と自身の経験に基づいた金言を仰られるだろう。想像にたやすい。されど時代は変わっていることには気づいていない。今は右肩上がりの明るい時代でもなければ、終身雇用と年金による完璧な老後も用意されてはいない。オリンピックが終わるまでは幸せな夢を見ていられるかもしれないがその後は覚めて現実を見なければならない。今金銭的制約に悩まされているのならおそらく今後もずっとつづくだろう。自由がない人というと北朝鮮の収容所だったり弾圧される少数民族を想像する。されど我々がそれほど自由なのだろうか。むろん収容所で生命すら脅かされている人たちと比べるなんて申し訳ないし実際に同じくらいに苦しいとは言えない。されど彼らを憐れむ私たちもバラ色の夢の国で生きているわけではない。当然いろいろと問題はある。二ちゃんねる創設者のひろゆき氏は水と安全があるだけでも日本はかなりいい方であるし幸せだと言う。この先何十年と生きるのであれば多くの金を稼ぐかこのような考え方を身に付けて生きるかが幸せになるための解決法といえるだろう。このさき宗教家が栄華を極めそうだ。