いつだったか読んだ現代文のテーマに人生考えさせられた

  そこそこ昔の話だが模試の現代文で印象的な話があった。現代文特に小説で試験を行うことは大嫌いだったが、評論に関してはけっこうおもしろい話が多くて好きだった。

たまに作者が賢ぶろうとしているのかやけに横文字を多用したりわざわざ哲学の話を引っ張り出そうとするところもまたお笑い要素として嫌いではなかった。そういう点でいうと小池百合子都知事もやけに英語多用していてなかなか可愛らしい。

 いつだったか読んだ現代文の話に戻そう。現代文の試験で使われたのはもちろん一部だけなので試験後にその全文が読みたくて検索した思い出があるが当時は見つからなかった。私は人生において感銘を受けた本は購入して本棚に飾るのが結構趣味で小さい時に読んで大好きだったローワンシリーズというハリーポッター位の厚さの児童文学の本を全巻揃えている。できればその本も購入して本棚の肥やしにしたいがいつか叶うのだろうか…。そろそろその内容について紹介する。

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うろ覚えだが細部は適当に補強して要旨を紹介する

人間というものはいずれ死ぬものであり死後にはその意識は消失する。死後に残るような建造物や子孫によって受け継がれる遺伝子に自身の存在の証を求めたとしても、建造物もいずれ滅んで土に還ることとなるし人類とていづれは滅ぶ。そうであれば人に生きる意味はなく、何を理由に生きるのだろうか。その後はちょっとわかりませんが結論の方は覚えています。

 人が無意味の中で生きる意義とは楽しむことである。人生に本質的な意味はないが、家族と過ごすことであったり、満足できる仕事をすることであったりとそれ自体に価値があると感じる行為を積み重ねる。音楽などがいい例であり音を奏でることに意味はないしいずれ消えるものだが演奏それ自体を楽しむ。そうやって生きていって死にゆく瞬間にその無意味を嘆くのでなく、家族との思い出など人生で積み重ねてきたそれ自体に価値があることが死にゆく当人にとってなぐさめになる物であれば意義のある人生だったといえる。

みたいな内容の話だった。高校生というのはこれから関わる社会を斜めに見がちだ。少なくとも私はそうだった。将来愛することとなる人を知る由もないし、どんな職に就くかも定まっていない。描く幸せの姿はシルエットだけのものだし、薄々と人生の無意味さも感じるお年頃である。そんな時にこの現代文と出会えたことは中々運命的にすら感じた。多くの人間は歴史に名を残すこともなくして死ぬ。当人の思想も生き方も知るのはその息子位のもので孫すらも祖父のことなどよくわからない。その人の遺影が孫の代位まで仏壇に飾られるだけで、あとは墓石と戸籍台帳くらいが彼の存在を後に示す。

 そんな人生を受け入れて絶望することなく、死の間際にいい人生だったと思える生き方をしようというのは極めて誠実だ。あるかわからぬ来世や天国での生活には言及しないし、社会のために歯車として生きろというわけでもない。宗教の奴隷になることもなく社会のロボットに成り下がることもない。一人の人間として尊厳ある生き方だと感じた。なんだかこんなふうに言うと堅苦しいし過激だ( ´∀` )

もっと率直に言うと「いいな」って思えたのだ人に迷惑もかけないし人生の無意味さも受け入れている。受け入れられるならば煩わされることもない。正面から受け止めてない気もするけど斜に構えたっていいだろう。社会に埋没する自分を受け入れる森鴎外「諦念(レグナチオン)」にも近いかも。大切にしたい

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こうやってブログに書いたわけだが同じようなニュアンスの文章を知っている人がいたら教えてほしい。ぜひとも全文読んでみたいのでコメント待ってます