大学生は恋愛に思考を囚われがちなのではないか

 大昔であれば大学生というと社会のエリート層となることを約束されたような存在だった。昔の大学生、旧制高校では学生は寮に住み、仲間とともに将来について酒を酌み交わしながら語り合うのが日常だった。彼らは卒業後は官公庁や企業の中核となる人材として社会で活躍した。

 されど現在では大学の数が増えたことで学生の地位の低下、社会の閉塞感、大学生の志向するスタイルの変化が生じている。学生の地位の低下と社会の閉塞感はともかくとして、大学生の志向するスタイルの変化とはどういうことかと疑問に思った方もいるだろう。今の若者において重要なのは結構女の子にモテることだったりする。大学において成績はもちろん大事だが結構卒業さえできればいいというのが実情だったりする。ゆえに大学の試験でよい点数を取ることは別に発表されるわけでもないし、周囲から尊敬を得ることもそれほどできない。大学生のツイッターをのぞけば大抵食事の写真と友人と遊んだ報告と眠いだの一限めんどいだのの言葉であふれている。なんというかまあ暇なのだ。暇だから遊ぶ、遊んでいて充実していそうな人が偉いみたいな謎スパイラルが発生する。暇をつぶせる友人がたくさんいることは素晴らしいことだが常日頃集まって暇つぶしに遊ぶばかりの大学生活というのはいかがなものだろうか( ´∀` )人間賢いものでその生活に疑問を持つ。「俺こんなことばっかしててええんやっけ…」と考える。

実際大学生になると恋人がいるかどうかや日々暇なく充実して過ごしているかの自慢大会がSNSなりキャンパス内なりで生ずる。全く面倒である。この悩みを解決するためには自分の恋人を見つけるか、そんなことが気にならなくなるほどの仕事なり作業に打ち込むか、同性の友人らと楽しく過ごすといった手段がある。恋人を見つけるためには色々とその人なりの戦略が必要になる。男性でも女性でもどちらもみんながイケイケなわけではない。自分がイケイケ男子でなくとも女性でもリア充女子の生活にあこがれつつ悶々としているタイプはいるのでそういう人が狙い目である。自分と似たようなタイプとくっつきがちということだ。その際に非イケイケタイプは恋愛において奥手だったり慎重だったりするので男女どちらかが歩み寄らねばずっとくっつくことはない。私の場合もどちらかというとその人が好きでたまらなかったというよりは互いに依存する相手が欲しくて最初はくっついたものだ。彼女でなくとも何でも話せる宅飲み友達を作れれば十分楽しい。何でも話せる異性がいるというのはすごくうれしいもので精神衛生上大変良い。私の場合さみしさに耐えられないタイプだったので似たような異性を見つけられたのはかなり良かった。自分に似た相手を愛するというのは少々歪んでいると思わないでもないが一番居心地はいい。交友関係の広い異性とよく飲んだことがあったが彼女は他の奴ともしょっちゅう飲むのでわたしはあくまでそのうちの一人にしか過ぎない

そこらへんに悩むことがあっただけに、自分を優先順位の一番上においてくれる存在はそれだけでもかなり救われる。一人暮らしは親という最大の自分を愛してくれる存在を遠くに感じさせる。それだけにずっと一人でいると自分は他人に愛されないのではないのかと不安になる。自分を愛してくれるなんてずいぶんと甘美ではないか・・・そういう人と出会いたいもんですな